会社を退職しました。|これまでの仕事とこれから

退職

退職してから約2週間。有給消化期間もあわせると、もう1ヶ月以上の時間が経ちました。

会社の近くは毎日通っているし、ばったり会うこともしばしば。今後もまったく関わりがなくなることはないと思うし、そうしたいとも思っていません。

それなのに、なんだか遠い昔のような気持ちなのです。

最初の数日は、寂しくて、怖くて、しんどかったのを覚えています。

でも、それはわかっていたのです。道から外れた疎外感や、自由であるがゆえの苦しみは、経験したことがあったから。

もくじ

みんなと同じ道を歩くことができなかった

高校生の頃から、私は学校の外で、ほとんど仕事のようなことをしていました。

大学で勉強したいこともなく、ただ将来のために学歴を得るためだけに、莫大な借金をすることが嫌だった。だから、進学はしないと決めていました。

高校生の頃から、大学生や大人の人たちと関わる機会がたくさんありました。そんな人たちを見ているともやもやする。同時に、私も目的もなく「将来のため」と高校に通っているだけなのではないか、と気づいたのです。

もともと学校教育の在り方にも関心があったので、新しく発足した通信制高校に転学しました。

当時は、イベントの企画運営や集客を中心に活動していました。企業の学生支部のようなところで、仕事といっても完全なボランティア。8時間目まで授業を受けたあと、制服のまま梅田に向かって会議に参加したり、授業中もiPadで仕事をしたり。営業マンの本を読み、セミナーに参加して、すっかりビジネスの思考に染まっていました。

今振り返ると、視野が狭くなるほどのめり込みすぎていたと思います。それでも、高校受験の次に夢中になった、大切なものでした。あの頃の反発が、今の私につながっているような気がします。

でも、高校を辞めてから、急に不安になりました。

社会から外れてしまったような疎外感と孤独。電車に乗っても、スーツを着たサラリーマンと制服を着た学生がいる。私だけが違う時間軸で生きていることが怖くなって、不安定な時期は約1年続きました。

高校3年生の秋から冬にかけて、先生から進路を問われるようになりました。大学に行かないと生涯年収がいくら違うとか、なんとか。とにかく大学進学を勧められることに「またか」と思いました。新しい風潮の学校だと思っていたけれど、何も変わらないじゃないか。電話が来るたび、怒りで泣いていました。

でも、自分のなかで大学進学を頑なに遠ざけているのは不自然じゃないか。道を外れたいから選んでいるだけではないか、とも思ったのです。

一度、大学進学も就職も視野に入れて、すべてやってみよう。オープンキャンパスに行き、大人に話を聞き、企業見学にも行きました。そのうえで、やっぱりどれもピンとこず、断念。

卒業すると、私は学生ではなくフリーターになりました。

どの道も嫌。おかしいと思うものをすべて排除してきた結果が、フリーター。そりゃそうか。

それなら、ちゃんと選ぶようにしよう。嫌なことを排除するだけではなく。

そう思って始めたのが、賃貸物件の取材ライターでした。

物件の撮影をして、記事を書く。まちを少し散歩して、このまちにはどんな人が合いそうか考える。家を見て、どんな暮らしができそうか考える。

これはすごく楽しかった。

でも、コロナの時期と重なり、数ヶ月の休業。その間にアロマや英語、ヒンディー語を勉強していました。

今後どんな生き方をしたいか考えると、旅をしたいと思った。高校2年生の頃に行ったタイとインド、語学研修で行ったオーストラリアが、ずっと心に残っていたのです。

そして、就職ではなく、自分で仕事がしたかった。

そこで出逢ったのが、デザインでした。

インドの寝台列車から、窓の外を眺める。

やりたいことを探して、サンポ屋が生まれた

最初はWEBデザインから勉強しましたが、プログラミングがなかなか頭に入ってこず、デザインは楽しくやれたので、途中からグラフィックデザインに絞りました。

勉強を始めて2〜3ヶ月経った頃、就職したら実践的なことが学べるのでは!という安易な考えで就活をしました。

広告代理店で面接してもらうと、デザイナーの上司と同じ誕生日で盛り上がり、「試用期間から」とお試しバイトがスタート。

新大阪のビルにスーツで通う日々は刺激的でした。必死に仕事はしていたけれど、あまりの技術の乏しさに試用期間で終了。

そのとき、「専門学校に行くのはどう? 仕事をするとプロと比べることになるけど、学校だと同じレベルの人たちの中で、自分のどこに強みがあるのかがわかる」と言われました。

すごく納得して、その日のうちに学校を調べ、資料を取り寄せ、すぐに入学が決まりました。

本当は、独学で勉強し始めた6月、半年後の12月にフリーランスデザイナーとして仕事ができていなければ普通に就職する、と決めていました。

でも、会社で現場を見たこともあり、そんな短期間で仕事ができるようになるわけがない。しっかりプロとして仕事をしたいと思ったのです。

ただ、広告代理店での経験から、「こういう仕事がデザイナーだというなら、私はデザイナーになんかなりたくない」と泣きながら帰ることもありました。

元々、「ソーシャルデザイン」と言われる、社会問題に取り組む仕事に関心がありました。福祉やまちづくりなども。

デザインは、あらゆる必要な仕事の支えにもなる。携われる範囲と量が広いのです。

私は広告ではなく、そっちかもしれない。

飽き性な私が、人生で初めて、これだ!と思った。この道でやりたいと思った。

学校に通うのは4月からだったので、それまで不動産会社の企画部でアシスタントデザイナーとしてアルバイトを始めました。

注文住宅の会社だったので、間取りを書いたり、モデルルームの撮影に行ったり。デザインも勉強がてらやらせてもらいましたが、結局は上司が作っていました。

賃貸物件の撮影をしていた頃と似ていて、楽しかった。でも、あまりにも役に立てていない感じが苦しくなって退職。

上司は、技術力ではなく人柄で雇ったと言ってくれました。技術はあとから身につけられるから、と。

それでも、無力感に耐えられなかった。

その頃、学校で自分をプロデュースするものをつくり、プレゼンする課題がありました。

自分ができることをすべて詰め込んだ企画を考えました。それがきっかけでできたのが「サンポ屋」です。

賃貸物件の取材ライターをしていた頃、いろんなまちを歩きました。それぞれの良さがあった。それなのに、部屋を探すときは利便性が重視される。

日本にはきっともっといいまちがあるはず。利便性ではなく、感覚的に「私はこのまちが好きだな」と思えるまちが。

「まちから探すお部屋探し」があると素敵。自分も、もっといろんなまちを散歩したい。そして、インスタグラムで紹介するのだ。

わたしは、写真も撮れるし、デザインもできるし、文章も書ける。SNSは昔から異常なくらい使っていて、やめたくてもやめられないくらい好き。何かを人に言いたくてたまらない。

これこそが、私をプロデュースできる企画だ!と思ってプレゼンしました。

本当にやりたいことだったので、発表が終わってからも続けました。

好きなまちに、居場所ができた

サンポ屋の発信の一環で、「北加賀屋」に出逢いました。

北加賀屋から玉出、粉浜をぐるぐる散歩して、このあたりのまちがすごく好きだと思った。

好きだと思ったまちを知るためには、「働く」か「住む」ことだと考えていたので、働いてみようと思い立ちました。

アルバイトを探してみると、北加賀屋の病院で広報デザイナーを募集していたのです。医療福祉は、やりたいことにもとても近かった。

応募するとトントン拍子に面接へ進み、アルバイトが始まりました。

ある日、自分のデザインについて上司から指摘を受け、それが正論でぐさっと刺さり、昼休みに公園で泣きました。

その帰り道、純喫茶へ緊張しつつも救いを求めて入ってみると、とてもポジティブなママに励まされました。みんな仲良しの平和な空間に癒され、すっかり元気になって、鼻歌をうたいながら会社への帰路についていた。

そこから、私の純喫茶好き人生が始まります。

毎日のようにママに会いに行きました。アルバイトじゃない日も、北加賀屋に来た。このまちのすべてが好きでしょうがなかった。

就活の時期に差し掛かり、会社にはデザイナーがいなかったので、就職はしないつもりでした。デザインの学校に通い、その道のプロになるんだから、デザイン事務所でしっかり鍛えたいと考えていたのです。

でも、一緒に働いていたカメラマンが辞めて、デザインも写真も私がひとりでやらなくてはいけない日々が始まりました。その後、デザイナーの上司がやってきました。

就職活動の相談をしたり、もうひとりの上司とは銭湯で湯に浸かりながら話し合ったりもしました。

北加賀屋にもっといたい気持ちと、この会社でやっと関係性ができてきて、居場所になっていたこと。

しかも、デザイナーの上司ができたのなら、他の会社に行かないといけない理由もなくなった。

そのまま就職させてもらうことにしました。

あれから4年。アルバイトの時期も合わせると、約5年間この会社にいたことになります。

長かったなぁ。

思い出すと泣きそうになるくらい、愛おしい思い出になっています。いろんな人の顔が浮かぶ。本当にいい時間だったなと思う。

たくさんの経験をさせてもらったこともそうだけど、とにかく、居場所だった。

家族みたいな、そういう場所。愛おしくて、時にはすれ違いながら進んでいく。それでも、仕方ないな〜と受け入れ合う感じとか。

ただの会社ではないのです。

大切な居場所を離れること

大事な居場所を失いたくない気持ちと、ずっとへばりつくような違和感。

私にとっては、何をするかよりも、どう在りたいかのほうが大切なのだと思います。

自分がいいと思うことに、自分の意思で向き合いたい。自分で考え、選び、その結果に責任を持つ。そうやって、自分自身が納得できる仕事をしていたかった。

会社では、自分で企画してイベントを開けることもあり、やりがいがありました。一方で、会社には会社としての判断や責任があり、私ひとりの思いだけでは進められないこともありました。

それは、会社が悪いということではありません。どれだけ共感していても、会社には従業員を雇い続ける責任もあるし、会社として守るべきものもある。

働き続けるなかで、会社や社会がどんな仕組みで成り立っているのか、少しずつ構造として理解できるようになっていました。

ただ、情熱を持てば持つほど、自分の思いと会社としての判断を切り分けようと必死になりました。自分のなかにある「こうしたい」という気持ちを、どこまで仕事に反映させていいのか。その折り合いをつけながら働くことに、少しずつ違和感を覚えるようになっていったのです。

小さくてもいいから、自分で最後まで責任を持てる仕事がしたい。そんな気持ちが、ふつふつと大きくなっていきました。

病院で会社員として働いていると言うと、それだけで「ちゃんと働いている人」という気がして、周りからも特に問われることはありませんでした。

でも、自分のなかでは、実際の能力以上に、会社にいることで下駄を履かせてもらっているような感覚がありました。

会社という場所や肩書きがなくなったとき、自分には何ができるのだろう。自分の力でどこまでやれるのだろう。自分で仕事をつくり、判断し、最後まで責任を持ってやってみたかったのです。

サンポ屋は、始めてから5年間、一度もやりたくないと思ったことがありませんでした。うまくいかないことがあっても、形を変えながらずっと続けてきた。気づけば、いつも心の中心にあるものになっていました。一生かけてやっていきたいことです。

今はまだ、サンポ屋で収益を生むことはできていません。それでも、すぐに結果を出そうとするのではなく、長い目で見ながら、少しずつ守り、育てていきたい。私にとって、大切な仕事です。

だからこそ、サンポ屋をすぐに収益化することにこだわらず、長く育てていくための時間を持ちたいと思っていました。そのためにも、生活を支える収入は会社員として得ながら、サンポ屋を続けていくつもりでした。

でも、だんだんと割り切れなくなっていきました。

サンポ屋でやりたいことがあるから、というだけではなかったのだと思います。仕事の内容だけではなく、どう働き、どう生きていきたいのか。その土台の部分で、自分に嘘をつかずにいたかった。

転職をしたらいいのではないかと職務経歴書を書き、求人サイトを見ました。

どれも嫌だった。

共感する会社があっても、私がそこで働くことは想像できなかった。だって、わたしがやりたいから。

同じ志なら、どこかの会社に入ろう!とはなれない。同じ志でも、完全に一緒なわけがない。誰かと一緒に働くことが嫌なのではなく、自分の意思で選び、自分で責任を持って進んでいく。そんな働き方をしてみたかったのだと思います。

それでも、やってみたかった。やれるかもしれないという希望が拭えなかった。

こんな気持ちで会社員を続けることも、新たな会社に行くことも、いい結果を生まないと思いました。

一度自分でやってみて、鼻を折られたら、「あ〜まだ未熟者でした!頑張ります!」と気持ちを改めてから就職したほうが、身が入るし、まっすぐに仕事ができるはず。

自分で仕事を始めたら、仕事やお金のありがたみに気づくはず。視座も上がる。

まだ24歳。結婚も出産もしていなくて、家族も健全。背負うものがないうちに。

そうして、会社を辞めることにしました。

自由の先にある、責任と誠実さ

周りの人が仕事をくれて、すこしずつ制作の仕事をさせてもらっています。

そして今、仕事を受けるか、受けないか。時間をどう使うか。すべてを慎重に考えるようになりました。

信用につながるので、最後まで責任を持てないことには携われない。

これまでは情熱のままに突き進むことが多かったけれど、今は焦ってたくさん引き受けることより、絶対にやれることをすこしでいいからやりたいと思っています。

「誠実」であるということは、関係性がいいときに仲良くすることではなく、難しい局面で逃げないかどうか。

何があっても、どうにかする。その責任にお金が払われているのだと気づきました。

世界がスローモーションで動いているみたいに、特に繊細にいろんなことを吸収しています。

今までは制作をしていたらよかったけれど、仕事を受ける前の条件の話し合いから、受注、進行まで、制作以外に考えることがたくさんある。まるで経営者のようです。

新しい世界に少しずつ慣れて、自分の力を発揮できるようになりたい。まずは、とにかく制作を中心に、受注した仕事をしっかりやれるようになりたいと思っています。

やりたくないことや苦手なことからも逃げられない。何かうまくいかないことがあっても、誰かのせいにはできません。すべて自分で選んでいるからです。

会社員との違いはたくさんあります。会社員だった頃を思い出すと、ありがたかったなと思うこともあります。自分で選べる範囲が限られていたぶん、考えることは少なくて済んだし、ある意味シンプルでした。

小さな小さな看板を、ひとりで立てている。怖くてたまらないし、考えすぎてすぐに疲れてしまう。

仕事がたくさん来るわけでもない。自分の力で生きていくには、まだまだ足りないものばかりです。そんな現実が情けなくなったり、恥ずかしくなったりもします。

それでも、妙に納得している自分がいます。

やっと、わたしらしい破天荒な人生に戻ってきたな、と。

もちろん、これからどうなるかはわかりません。苦しいし、不安だし、現実を突きつけられることもあります。それでも今、わたしは何ひとつ嘘をついていない。

何者でもない自分のまま、自分で選んだ道を歩いている。できることも、できないことも、今の自分の等身大です。

そう思うと、今のわたしのほうが、前よりずっと好きなのです。

その先に、サンポ屋で仕事をつくりたい

今は、私がどこで、誰に必要とされるのかを知りません。

でも、仕事をしていくうちに、自分の強みがわかってくるはずです。何を求められているのかも、気持ちやアドバイスといった曖昧なものではなく、お金という現実的な数字を通して、少しずつ見えてくるのだと思います。

この1ヶ月は、ポートフォリオサイトを公開し、サンポ屋の二つ折りパンフレットもつくりました。

「なんでもいいから仕事をください!」と仕事を探すのではなく、自分にできることをきちんと整理して、必要としてくれる人に出会ったとき、自分の言葉で伝えられるように。

まずは、その準備をしてきました。

だから今は、目の前の仕事をひとつずつ、ちゃんとやっていきたい。

会社を辞めて、自由になりました。

でも、自由だからこそ、自分で選ばなくてはいけないし、自分で責任を持たなくてはいけません。

高校を辞めた頃にも、同じような孤独や不安を感じました。みんなと違う時間軸で生きていることが怖かった。

あの頃と違うのは、今は、自分が何をしたいのかを少しずつわかっていること。そして、そのために何を経験したいのかも、わかりはじめていることです。

まだまだわからないことばかりだけど、まずは自分で仕事をしてみる。

受注した仕事を通して、自分にできることを知る。その先に、いつか、サンポ屋で仕事をつくりたい。

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