ずっと観に行きたかった『急に具合が悪くなる』という映画を観に梅田へ。
すこし早く着いたので純喫茶で読書。
映画を観る前の、なんでもない時間。人が行き交うのをぼんやり眺める。

映画を観終わって、いろんなことを考えながら帰っている。
生きること。人と一緒に働くこと、話すこと。せかいのことについて、考えること。
なんて素敵なことだったのかと思った。
いや、素敵というより、おもしろく、自然なこと。
脱力したら、ほんのすこしの力にも気付くことができる。

映画は、劇は、余白を持って問いを残す。経験しないとわからないことを、小さな声でみせてくれる。
せかいのやるせなさや、希望のこと、うつくしさのことを。
どれだけ正しいことでも、伝えようとしても伝わらないことが多い。
人気な映画として世間に渡ると、聞く耳持たなかったようなことであっても関心を持つ。
そんなにいいことをしていたのか、と図らずしも誇りを持つ。
道は一本ではなかった。
目の前のことに必死で余力がないと、道が他にもあることすら、気付けない。
対話をするとき、問題そのものについて解決しようとせず、相手を知ることも結果的には解決に繋がる。
わからないこと、わかろうともしないことが問題の核心なのかもしれないから。
静かな映画だった。静かに終わり、エンドロールはずっと続いてほしいほどに穏やかで、大自然の中でヨガをしているような心地よさだった。
生きていることは素晴らしいよ!と言わずとも、それを感じさせることはできる。

直接的な言葉ではなく、「感じさせること」は高度だ。こどもにも、部下にだってそう、言われたことではなく自分でそう思ったことは信じられるのだ。だから、気付くように仕向ける。それは遠回りに見えて、実は一番信頼を置いたコミュニケーションなのかもしれない。
むずかしく、労力はかかる。でも、言葉より遠心力がある。遠くに広がる可能性を秘めている。気づく余地もなかった人にほんの少しでもそれを届けられる。それは今わからなくても、点と点が重なったとき数年後にやっと気づいたりする。小さな声の力は、内側から揺さぶるような力強さがある。
今すぐに影響できるわけではなく、映画だってたくさんの労力と時間とお金を有する。ただ、そのコストをかけれでもやっている事実が説得力になる。だれかが、こんなにも伝えたいことがあるということが。効率とは真逆の場所に希望がある。
アートや芸術、表現に対して、希望を感じる。

これは、映画だけの話ではないと思った。
わたしが仕事としてやっている「広報」にも、同じことが言えるのではないか。
広報が好きだ。でも、よくあるような相手を動かす数字だけの宣伝はとてもいやだ。誰かが嫌な気持ちになったり不安になるような広報はしたくない。
きて!って言わなくても、自然と行きたくなるような見せ方をしたい。買って!って言わなくても欲しくなるような見せ方をしたい。そんな広報ができる人でありたいと思っている。
わたしの中で広報は、信頼を築きあげる行為だと思っている。それは、相手を数字としてみないことであり、自分にも嘘をつかずに事業を進めることであり、お互いの意思を尊重しながら、きちんと関係性をつくること。
人を動かす技術ではなく、人と人の間に信頼が生まれるようにする仕事だと思っている。だから、わたしは広報が好きなのだと思う。


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