家の中に初夏の風がきもちよく流れ、どこからか晩ごはんのおいしいにおい。
こどもたちの笑い声、お母さんが注意する声、風鈴の音。
もう18時になるのに、まだあかるい。
鳥たちも、まだ鳴いている。

きょうは頭が痛くて、会社を休んだ。
家を出る前に家事をして、残った20分間、畳の上に寝転び目を瞑った。
こうしているあいだはきもちがよくて、ただただ時間が過ぎた。
同居人の休んだら?のことばの響きが妙に心地良く、あっさりと休んだ。
携帯を畳の上に置いたまま、ベッドで毛布にくるまる。
朝の光がまぶたの裏まで届き、
外の音としんとした部屋の中の音に身をゆだね、眠る。
同居人が「ちょっとおなかの調子が悪いから念の為病院に行く」と言う。
わたしはいろんなことを薬で解決した気になっている。
ちゃんとからだの声に耳を澄ませるって、
じぶんを諦めないということでもあるのだろう。
それは、こんなふうに何もせずに目を瞑って過ごす時間に、気づくのだ。

ものが多くなると埃が被り、何があったかもわからなくなるけれど、少なければ簡単に掃除ができる。
冷蔵庫の中、料理の棚を整理して、ドライフラワーを処分し、ベランダの掃き掃除をした。
土鍋ごはんを久しぶりに炊き、うめぼしを乗せて頬張る。
息が、できる。
同じ時間を毎日過ごしていたはずなのに、ちがう。
いつもの私は、エアコンの風と蛍光灯の下で、帰る頃には陽は沈んでいるのだった。
こんなに心地の良い日々が、ここにあったんだったと気づいてすこし泣きそう。
知っていたはずなのに、忘れてしまっていた。思い出したら何かが変わってしまうかもしれないと塞ぎ込んだ。

自然と外を眺め、においを嗅ぎ、耳を澄ませる
たわいのない瞬間を、もっとあたりまえのようにうけていたい。
ただこうして身を委ね、感じることが何よりも贅沢なことで、
生きていられるだけでどれだけ気持ちの良いことなのか。
地球にいるというふつうのことが涙が出るほど美しいと感じられる感性こそが
なによりたいせつにするべきものだった。
陽が落ちてきて、ひんやりとした風が植物を揺らす。
遠くに山が見えていたことに、きょうまで気づかなかった。
「ここに生きている」ただそれだけのことを、
染み入るように肌身で感じた一日だった。


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